「啄木雑想」を始めるにあたって、明治45年、26歳で夭折した啄木の葬儀が営まれた浅草の等光寺に行ってきた。小さな寺の入り口右にひっそりと
<浅草の夜のにぎはいにまぎれ入り まぎれ出できし さみしきこころ>
の歌碑があった。今日4月13日は啄木忌、書き始めには相応しい日である。浅草については後に触れる。
<やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに> (一握の砂)
 |
渋民にある啄木第1号の歌碑 |
春を感じる時節になるといつも思い起こすのは、啄木の歌の中で最も親しまれているこの美しい望郷の歌である。頼りなげな柳の枝が淡い緑の芽をつけて清澄な川面にその影を映している様が見えるようだ。
みちのくの春は遅い。日差しが明るくなっても頬に当たる風は冷たい「光の春」がつづく。早春は、まだ白く残る雪と目覚めたばかりの黒土との対比がいい。黒が勢力を増すにしたがって春の色が濃くなる。せっかく芽を出した雑草の僅かな緑でさえしばらくそっとしてやりたい気持ちになる。
そうして、梅と桃と桜の花がいっしょに咲き誇る本当の春が来る。福島県にある日本三大桜・滝桜で有名な「三春」という町は、三つの花の咲く春の揃い踏みの様子を地名にしたものだ。
そんな渋民や盛岡で過ごした啄木は、冬が長いからこそいっそういとおしい故郷の春を、芽吹いたばかりの柳に託して、熱い気持ちで思ったことであろう。
この歌の「や」と「き」の韻の響きがいい、という評解が多い。Y行はやわらかさ、K行は凛とした様子を感じさせる。

盛岡駅からほど近く東に300メートルほどのところに開運橋がある。
この開運橋から北上川上流を眺めると秀峰南部富士・岩手山が見える。中学生のころよく通った開運橋と夕顔瀬橋の間の岸辺では、潅木の中にネコヤナギが銀色綿毛の芽をつけていた。
柳には、実は、覚えがない。啄木のふるさと渋民の北上川辺には柳が群生していたという。
右岸(下流に向かって右側)に旭橋際まで続く「啄木であい道」があり、啄木と妻節子の歌碑が30数基の立ち並んでいる。<かの時に言ひそびれたる 大切の言葉は今も 胸にのこれど>以外は小さな碑だ。
向こう側の土手沿いに花壇と散策路がある。その入り口付近には、啄木の春のこの歌と妻節子秋の歌が記されている。
<光り淡く こほろぎ啼きし夕より 秋の入り来とこの胸抱きぬ>節子

北上川は、盛岡から北40kmの岩手町の御堂観音を源とする東北有数の川で、啄木の時代、川底が見える清澄な流れであった。
私が住んでいた当時は盛岡付近では茶色だった。いつも大雨の後のようだった。
大正3年に始まった岩手山麓の松尾鉱山での硫黄・硫化鉄の採掘精製により、選鉱過程で生じた泥に汚れた水が流れ入ったからだ。昭和47年鉱山が閉じられてからは、まったく処理されていない強酸性の坑内水が流れこみ、更に茶褐色の濃い、まったく魚の住めない「死の川」になった。
啄木の嘆くまいことか。この歌は水清き「北上」でなくてはならない。
いまは、20年前に始められた中和処理により北上川は往時の清流をとり戻している。
有名な
<かにかくに渋民村は恋しかり 思ひ出の山 思ひ出の川>
の「思ひ出の川」はもちろん北上川である。
<やはらかに‥‥>の歌碑は、啄木の没後ちょうど10年の大正11(1922)年4月13日、地元有志によって渋民の北上河畔に建てられた。高さ4.8メートル、幅3.6メートルもある啄木最初の歌碑である。南部鉄でできたこの碑の小さなレプリカが、長く(50年間?)私の机上や本棚の端に忘れずに置いてある。
この堂々たる碑は、西に「思ひ出の山」岩手山を望み、裾野のスズランの花が愛らしい姫神山を東に見て悠々と建っている。
姫神山の春5月、新緑の山裾の山菜、つぶらな白い花が目に浮かぶ。
私が渋民に行ったのはもう50年前のことである。
* 盛岡市梨木町2-1 伊藤氏宅庭内にも 昭37建立のこの歌の歌碑があるという。