啄木の晩年は、生活困窮と病苦と家族の諍いと、暗い情況が幾重にも重なり困憊の中に過ぎる。
「晩年」といってもまだ20代前半から半ばの青年期であり、一家の暮らしを支えるには故郷の家をうしなった中学校中退の彼には余りにも荷が勝ちすぎた。
「一握の砂」の我を愛する歌の一部と没後2ヶ月後に発行された第2歌集「悲しき玩具」は、このような情況で呻吟する啄木晩年の日々をスライド画像のように伝える。
釧路・東京での単身の1年半(明41.1~42.6)小樽・函館に残された母と妻子はほとんど仕送りもない貧しい生活を余儀なくされ、そういう中で家族の絆は次第に緩み、慈しみ育ててくれた老いた母と愛する妻との確執の度を加えていった。
<猫を飼はば、 その猫がまた争ひの種となるらむ。 かなしきわが家。>

今ここにかわいい仔猫が現れて娘の京子が飼いたいとでも言ったら、この家はどんなことになるのか。家族がそれぞれ持つ苛立ちの中にあってゆとりなどない日々を過ごしている様子が浮かぶ。
(※ 猫の写真をポイントすればだんだん大きくなります。)
心からの楽しみを感じることのない日常だったが、たまにはささやかな事象に心休まることもないではない。
<ある日のこと 室の障子をはりかへぬ その日はそれにて心なごみき>
が、これも「それにて」である。たまさかの限られた心の解放にとどまり、そのことが長続きする家の明るさをもたらすというものではない。
社会主義・無政府主義にいたく関心を抱き、自ら社会主義者を名乗るようになる晩年の思想の転換も、正義感や教養主義に導かれたというより、悲しくもその貧困に由来する。
<わが抱く思想はすべて 金なきに因するごとし 秋の風吹く>
東京朝日新聞社に校正係の職を得、定収ができたこともあり、一時借金を重ねた啄木も、この時期(自分は天才であるとの自信がぐらついた後)には家賃の滞納のほかは、借金をしていない。夜勤を志願していくばくかの手当を稼ぐなど少ない給料で懸命に一家を支える意志が見える。しかし、
<はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る>
と嘆かざるを得ない。自分自身のほか母も妻も病が進み、朝日新聞社からは給料の前借りを重ねる。
<たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩歩まず>
母カツは北海道で別れたときすでに病を得て衰えていた。「軽き」は貧しい食事と病気によるものといってよく、なんとも不憫で悲しい。その母がm45年3月66歳で死去。
私も最近母を亡くした。小さい母がさらに小さくなった姿を憶うときこの歌が口を衝いて出てくる。
啄木は慢性腹膜炎(実は結核を併発)で明治44年2月入院する。その病床にあって、
<『
石川はふびんな奴だ。』
ときにかう自分で言ひて、 かなしみてみる。>
と無意識につぶやいている自分に気づく。「己が名をほのかに呼びて涙」した「十四の春」もあった。たった10年で自分を憐れむ独り言がこんなも違う。
この歌から1年後の明治45年4月13日、父一禎、妻節子、娘京子、若山牧水に看とられて東京・本郷区の自宅で逝く。肺結核。満26歳。
金田一は勤務先の学校に行くよう勧められ枕辺を離れたため臨終には居合わせなかった。
2日後、土岐哀果らのはからいで一月前に母を送った同じ浅草の等光寺で葬儀が執り行われた。会葬者は、夏目漱石,森田草平,相馬御風,木下杢太郎,北原白秋,佐佐木信綱ら高名の文人をはじめ約50名。
死去したことも葬儀の執行も新聞で報道された。法名、啄木居士。
<浅草の夜のにぎはいにまぎれ入り まぎれ出できし さみしきこころ>
第1回の書き出しで触れたこの歌が、等光寺内の歌碑に刻まれてある。北海道から上京し創作活動に行き詰まり浅草に慰めを求めた頃の歌である。発表の2年後浅草の寺で自分の葬儀が営まれるようになるとは思ってもみない。
妻節子の意思で翌大正2年3月遺骨を函館に移し、のち立待岬の墓地に葬った。現在の「啄木一族の墓」は、宮崎郁雨により大正15年に建立されたものである。
その節子も、それから1ヵ月余の後、啄木が行ってはならずと言い残した 函館で、啄木と同じ病いで後を追うように死去する。
短い生涯にかかわらず残した作品の多さに目を瞠る。流して書けるような中身ではない。
かなりの量の日記も残されている。この日記も極上の作品である。残した日記は焼却するようにと遺言したというが実際にはほとんど残された。
そのとおりにしていたら啄木はこれほどまでに人々の中に生きられたろうか。自らを曝した日記によって、残された作品がさらに光芒を放ち、単なる望郷歌人から先進的文学者として評価が高まったのではないか。
世間知らずの我侭な行動を非難するのは易しい。啄木はある時期、自分が天才であると信じ、天才は大方のことは許されると考えての行動が我侭、驕りとなって見えるのだろう。
事実ではあるが多様な人間性の一面である。放蕩、無頼の徒ではない。それを補って余りある魅力がある。
その証拠に、盛岡中学時代の友人たちが自分の結婚式をスッポかしたのをきっかけに絶交宣言をした例はあるが、その所業の割には呆れて離れていった友人は少ない。借金ができるくらい人を惹きつける魅力があったというのは、ひいき目だろうか。
2年後の2006年は生誕120年(明治19
(1886)年生まれ)、さらに、2012年には没後100年(明治45(1912)年逝去)を迎える。こういう節目を機にまた新しい評価と論争が起こるのであろうか。夭折の詩人の話題は尽きることがない。
全12回 −了−
('04.05.03)