年が改まった朝、少し高くなりかけた陽光を感じると、まず浮かぶのがこの歌である。
<何となく、 今年はよい事あるごとし。 元日の朝、晴れて風なし。>
あらたまの初春を迎えていつもより心が澄んでいるような思いがする。なにか解き放たれたような気分で大空におめでとうと言って、大きく息を吸う。
この歌の初出は明治44年「創作」1月号である。この時期の啄木は、病が大分進行し、朝日新聞社への出社も途絶えがちとなっている。これまでの辛酸の歳月を振り払いたい気持ちを「今年(こそ)はいいことある」よう祈っている。
また、
<正月の四日になりて あの人の 年に一度の葉書も来にけり。>
と、函館の弥生尋常小学校の同僚訓導橘智恵子に対するひそやかな慕情を賀状(それもこちらから出したものへの返信なのだが)で何となく満たされる思いがあったことだろう。
この年(明治44年)の「賀状」は6日に着いた封書であった。それには、前年12月に発刊し、智恵子に贈った「一握の砂」に対するお礼と前年結婚したとの報があった。封を切る前のときめきと、読んだ後の驚きと落胆。
一方で同じ時期に、
<何となく明日はよき事あるごとく 思ふ心を 叱りて眠る。>
と、1月8日の東京朝日新聞に載せているのである。よき事のあるを願って、そして打ち消す。厳しい現実からは畢竟逃れられない。事実、2月初めには慢性腹膜炎のため(東京帝国大学構内の医科大学付属医院に)入院している。
明治44(1911)年という年は、前年と合せて近代日本の戦争への一大転換期とする見方がある年である。
画期となる事件は43年5月の長野に起こった爆発物取締罰則違反事件を発端とする「大逆事件」である。26人の被告のうち幸徳秋水ら24名が44年1月死刑判決を受け、12人が一週間の後には刑が執行されるという、暗黒の時代の始まりを感じさせる時期である。日韓併合もこの明治43年10月である。
啄木は新聞社に在籍していたこともあって、啄木は事件発生以来いたく心を引き寄せられ、衝撃を受ける。
<新しき明日の来たるを信ずといふ われの言葉に うそはなけれど――>
これも冒頭の歌と同じ時期に発表されている(「早稲田文学」明治44年1月号)。
明治42年11〜12月に評論「食ふべき詩」を『東京毎日新聞』に掲載、自らの文学の方向を社会との関わりを重視し見直すなど思想変化の流れの中にあったが、大逆事件は思想的な変革を確実なものとしたといっていい。
日記に「幸徳秋水等陰謀事件発覚し、余の思想に一大変革ありたり。これよりポツポツ社会主義に関する書籍雑誌をあつむ。」(明43年6月補遺)とある。
<やや遠きものに思ひし テロリストの悲しき心も―― 近づく日のあり。> (「新日本」明治44.8初出)
この歌も、もちろんこの事件を踏まえたものである。被告に同情し判決を批判する中でおのが心のテロリスト寄りへの移ろいを歌う。
明治43年8月、「時代閉塞の現状」を朝日文芸欄に掲載すべく執筆したが、新聞紙法(明治42年改正)で報道の自由を縛られていた時期であり、結局啄木の生前に発表されることはなかった。
自然主義批判としての文学論ではあるが、時代批評、国家批判の評論でもあった。
貧困と病苦が肌身に沁みる中にあって、理想と現実のギャップを痛感し、社会の問題、新しい明日を考察することが必要だと考える。社会主義への傾斜を深めていく。
<友も妻もかなしと思ふらし―― 病みても猶、 革命のこと口に絶たねば。> (「新日本」明治44年7月号初出)
重い病に侵されながら、かなり精力的に読み、書き、社会の問題に取り組んだ。
5歳の娘京子をたわむれにソニアと呼び、その娘は「労働者」「革命」などという言葉を聞きおぼえる(「悲しき玩具」
※ )。父と社会主義について話す(明治44.1.6日記)。家族生活の中ににも浸透していた。
この年は治安維持警察「特高」(特別高等警察)が置かれた年でもある。友も家族も病身の啄木を心配するのは当然である。
この歌を詠ってから10カ月後には、啄木は亡い。数少ない遺品のなかに秋水著「社会主義神髄」など10余冊の国禁の書が残されていた。
啄木の求めた「新しき明日」とはどういう状態の社会だったのだろうか。
単にインテリゲンチュアが好んだ新思想に流行りで乗っただけではない。
文学という窓から社会問題への進出を果たし、プロレタリア運動、無政府主義をめざすことだと言えないことはない。だが、明確なイメージを作り上げるには啄木に許された時間は余りにも少なすぎたのではなかろうか。
※
<五歳になる子に、何故 ともなく、 ソニヤといふ、露西亜名をつけて、 呼びてはよろこぶ。>
<「労働者」「革命」などといふ言葉を 聞きおぼえたる 五歳の子かな。>