啄木が盛岡中学校(今の盛岡第一高等学校)に在校したのは、明治31(1898)年・12歳から明治35(1902)年10月・16歳で退学するまでの多感な4年半である。
中学校時代の青春の日々を回想する歌は「一握の砂」の「煙」の章前半にある。
中学と城跡にかかわる啄木の歌たちには、ちょうど同じ年代に盛岡に居ただけに、巣立ちせんとする少年の感傷を自らのことの如く思い、一つひとつの歌に感情移入ともいうべき想い入れがあった。が、中でも最好?の一首は、と言われれば、この歌だろう。
<不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心>

盛岡南部藩の居城が不来方城で、多くがそうであるように今は公園となっている。
家から子供の足でも10分もかからないところにあり、小・中学校の時期なにをするともなくよく行ったものだ。相応しい草叢こそなかったがこの歌の格好を真似してみたことも幾度かある。
この城址二の丸跡に、私が仙台に移った昭和30年の10月、啄木生誕70年* を記念して金田一京助の筆になる歌碑が建立された。盛岡を去ったのが何か損をしたような気持になったことを覚えている。
このときの新聞記事の切り抜きが48年前に求めたクタクタで茶色になった角川文庫「啄木歌集」の末尾に張りつけてある。
*生誕七十年−いまは戸籍どおりの明治19(1886)年2月20日でとおっているが、戦後しばらくは、前年の明治18年10月27・28日とされていた。(後日触れる)
<教室の窓より遁げて ただ一人 かの城址に寝に行きしかな>

当時の盛岡中学校は城跡から北に100メートルちょっとの今の岩手銀行本店の所にあった。
道路をはさんで南に石割桜で有名な盛岡地方裁判所がある。文学に魅せられ学業にやや飽いていた啄木は時折教師の目を盗み、目と鼻の先ともいえる雑草の生い茂る城址に寝ころび、蒼天に心を預けひとときの安らぎを得ていたことであろう。
また、その歩道脇の植え込みの中には、
<盛岡の中学校の 露台の 欄干に最一度我を倚らしめ>
の歌と、盛岡中学濫觴の地たることを刻んだ石碑がある。
私の中学校の卒業文集は学級担任が自らガリを切り作ったものだが、余白にこの歌を、少々語句は違ってはいたが、教え子に与えんと記していたことを妙に覚えている。
<己が名をほのかに呼びて 涙せし 十四の春にかへる術なし>
才気走った白皙の美少年だった啄木はまた、思春期のナルシシズムを強く持っていた。初め5文字を推敲前の「
君が名を‥」とすればすっかり場面が変わるが、昔のあなた自身にいずれかの情景がなかったであろうか。
啄木が在校していた頃の盛岡中学校は、後に名をなす人材が多数在校、最も充実していた時期だった。
啄木の1級上に野村胡堂、板垣征四郎(陸軍大臣)、2級上に金田一京助、及川古志郎(海軍大臣)、郷古清(三菱重工業社長)、田子一民(衆議院議長)、
その上には、米内光政(総理大臣)、後輩には小野清一郎(東京大学教授刑法・文化勲章)、山口青邨(俳人)等、錚々たる顔ぶれである。
この中で野村胡堂、金田一京助在校中から文学を通じて親交があり、金田一にはその後金銭を含め多大の援助を受けることになる。
(知らない人ばかりだったらごめんなさい)
啄木にとっても文学に目覚め、後に妻となる堀合節子との恋もあり、精神が高揚し充実した時代であった。
128人中10位で入学試験に合格した啄木だったが、文学という'誘惑の女神'に惑わされる。学業は徐々に遅れ、最後はカンニング事件がきっかけとなって卒業まで半年を残して退学する。この退学は文学への道の大きな契機であったが、それはまた、残された人生10年の苦しい漂泊への旅立ちでもあった。その頃を、
<師も友も知らで責めにき 謎に似る わが学業のおこたりの因>
と、振り返る。良しとしたか、悔やみがあったのか。
私は中学3年の終わりまで盛岡一高に入るものとばかり思い、校歌も早々と覚えていた
(曲は軍艦マーチなので歌詞さえ分かれば歌える)。今や盛岡中学(盛岡一高)はもちろん盛岡にも中学にも縁がないが、胸を締めつけられるような想いを抱いた少年の頃が、時を超えて懐かしく蘇ってくる。
第 2 回 −了−
(引用した歌はすべて「一握の砂」から)
('03.05.06)