啄木は、盛岡中学を5年生半ばで退学し、文学を志して上京、数か月で傷心と病とを得て明治36年初め渋民に戻る。
この間体を癒しながらも文学への情熱は強く燃え、多くの小説や詩、歌を書く。38年には東京で処女詩集「あこがれ」を刊行する。
同じ時期長年の恋が実り堀合節子と結婚。39年4月、体調回復、一家の生計を支える必要にも迫られ、渋民小学校の代用教員となる。教育に情熱を燃やすが、校長排斥活動を行ない一年で免職になり、北海道に渡ることとなる。
明治40
(1907)年5月 21歳の啄木は、「予てよりの願」である「新運命を北海の岸に開拓せんと」(明40.5.2の日記)北海道に渡る。
が内実は、渋民小学校の代用教員を免職され、また住職を罷免された父の復帰運動などをめぐって紛糾し、<石をもて追はれるごとく>故郷を出ざるを得なくなっていたのである。
美しき故郷との永久の別れになるかも知れないとも思いながら、渋民を去る。
ここからの北海道11か月は、一家同居の束の間の平和な期間もあったが、函館、札幌、小樽、そして釧路を転々とするまさしく流転、漂泊の旅であった。(1906.5.6〜1907.4.下)彼の短い紆余曲折の人生の縮図ともいうべきか。
新天地に求めたものは何であったか。それはどれだけ果たされたのか、いや…。
函館には啄木ゆかりの文学館や碑が数多い。
啄木の記念碑や墓等に接したのは大学時代昭和35年夏、北海道2週間の旅行( 札幌をたっぷり見た後、網走、阿寒湖、摩周湖、釧路、帯広、襟裳岬、函館)の最後に観光バスで市内を回ったときである。
バスで半日、大森浜の啄木坐像、一族の墓のある立待岬も回ったが、函館の顔として絵になる函館山やトラピスト修道院の方が印象が強かった。いずれ真夏の好天の下、澄んだ空気と鮮やかな景色を思い浮かべることができる。
<函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花>

6月は函館弥生尋常小学校の代用教員に採用された月、北海道は爽やかな緑のいい季節である。梅雨に煩わされることもない。5月から9月初までの4ヶ月、函館で過ごした啄木はこの季節の良さを十分楽しんだことだろう。

青柳町は北海道で初めて住まいを構え家族とともに束の間の平和な時間を過ごした所で、「
苜蓿社」同人の多くの友の温情に包まれ、人生や文学を談じた。充実した生活を送った数少ない時期である。
この時期を懐かしく回想した秀歌である。青柳町の友は「皆共に恋を語れる事、常の如し」(日記)であり、必ずしも誰と特定する必要はなかろう。青柳町に近い函館公園の緑の木々に囲まれてほの暗い中に歌碑がある。
<東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる>

この歌は、津軽海峡に開けた立待岬に建つ啄木一族の墓兼歌碑歌碑に刻まれた、「一握の砂」の冒頭を飾る有名な歌である。妻節子は啄木の墓所に函館を選んだ。啄木が函館に残した心の軌跡をしっかり捉えていたからであろう。
この墓碑は大正15(1926)年、親友であり節子の妹を娶った宮崎郁雨により建立された。
<東海の>の歌は、市の中心に近い大森浜の啄木小公園にある啄木坐像の台座に刻まれている、
<潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇よ 今年も咲けるや>
などとの連想から、函館の海辺を回想した代表歌とされることもある。
啄木も中心街に近い大森浜に数多く足を運んではいたが、実際にあった情景ではなかろう。函館の海辺のイメージを借り心象風景を作りあげ、それまでの変転極まりない歳月から得た人生観を「砂」になぞらえ、「砂」を人生の象徴と考えこの一首を詠んだのではなかろうか。人生の姿は掴んでも掴みきれない<握れば指のあひだより落つ>砂なのだ、と。
2首目は「一握の砂」の書名の元となった、
<頬につたふ なみだのごはず 一握の砂を示しし人を忘れず>
歌曲風の曲もつけられ、昔はよく歌いもした、
(メロディー演奏があります)
<砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日>
を含む「一握の砂」初めの10首(末尾に付す)は、1首を除き「砂」の歌である。あえて巻頭に揃えたことを勘案するとやはりこれら10首は人生観を織り込んだ歌とみるのが適当と思う。新詩社風の気取った象徴を使う手法は一時期の啄木の歌風ともいえる。
「東海の小島」は、当時アメリカで活躍していた野口米次郎(ヨネ・ノグチ)の『東海より』(From the Eastern Sea)の詩に心うたれグローバルな見方を取り入れた時期もあったことから日本列島を指すとする解釈、渋民尋常小学校の同僚女教師の出身地青森県八戸の蕪島(ウミネコの繁殖地として有名)との説もある。少なくとも「北海」ではないのである。
<函館のかの焼跡を去りし夜の こころ残りを 今も残しつ>
充実した日々を過ごし、その後8月に函館毎日新聞の遊軍記者にもなり紙面に文壇・歌壇を設け大いに張りきるが、一週間後大火により学校も新聞社も「苜蓿社」も焼失、両方の職場を失う悲運に遭遇する。不幸の始まり。
在住4か月で函館に見切りをつけざるを得ず、心を残しつつ去る。札幌・小樽・釧路への漂泊の始まりである。
北海道がいかに啄木の心の奥底に生きつづけていたかを示す証左は「一握の砂」の「忘れがたき人人」の章の回想歌にある。前出<青柳町><潮かをる>とこの歌はこの章の「一」にある。
「忘れがたき人人」の「二」は、みな、啄木が‘鹿ノ子百合’と評した橘智恵子という弥生尋常小学校同僚の女教師についての回想、思慕の歌である。函館に心を残したじつに大きな要因であるが、敢えて触れなかった。別稿に譲りたい。
もう一首、「忘れがたき人人」の中で好きな歌を添える。
<船に酔ひてやさしくなれる いもうとの眼見ゆ 津軽の海を思へば>
北海道に若い妹光子と一緒に渡った時の回想である。妹へのやさしい眼差しと自分の不甲斐なさを憾む心がみえる。頼りないが心根はやさしい兄としての啄木が表れていて、好もしい歌である。
初めて青函連絡船の客となり、ひどい船酔いでいたく気が弱くなった中学3年の修学旅行を思い出す。
年代理解のため、簡略な
年 表 を添える。
第 3 回 −了−
(歌はいずれも「一握の砂」から)
('03.06.14)