如雨と而酔のページ啄木雑想>第5回初恋・思慕


啄木雑想タイトル



“ふるさとの山”岩手山
南 部 富 士・岩 手 山

※「啄木」の「啄」の字はカバーされていないため、本サイトでは「啄木」と表記します。ご了承ください。

【啄 木 年 表】


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第 5 回 : 初  恋 ・ 思  慕


 初  恋

 初恋は成就しないと言われるが、啄木は堀合節子との初恋を実らせた。少年の本当の初恋を、である。
 節子は盛岡上田の士族堀合忠操の長女、啄木と同じ明治19年の10月(14日)生まれである。

<その頃は気もつかざりし 仮名ちがいの多きことかな、 昔の恋文>  (悲しき玩具)

 啄木が節子と知り合い互いに恋心を抱き始めたのは啄木盛岡中学2年生、ともに13歳(明治32年)のときである。交わした恋文は100数十通、誤字の含まれることは熱い想いが先にたったことの証でもある。

 中学生の啄木は与謝野晶子の歌を「明星」で読み刺激を受け、先導されるように多くの歌を作った。節子との恋が啄木の文学を支え深化させたのはもちろんである。が、文学志向とこの恋が中学中退の因となったこと、「盛岡中学」に述べたとおりである。
盛岡岩山啄木詩の道にある啄木節子の夫婦碑
盛岡岩山啄木詩の道にある啄木節子の夫婦碑

 中学を中退して上京した啄木が節子からの手紙を欣喜して読む様が日記にある。
 「せつ子の君杜陵(とりょう、盛岡の異称)より新らしき写真たまひぬ。午砲の頃またその美しきみ文来る。み手づから編ませしてふ美しの枝折(しおり)、歌さへ添えて。かくて吾は一日限りなき追想と希望とを胸に描きて喜びのうちに暮しぬ‥‥」(明治35.11.30)

 そして、待ちに待った婚約承諾の報を東京から戻っていた渋民で受ける。
 「田村姉(啄木の長姉サダ、田村叶に嫁ぐ)より来書あり。余がせつ子と結婚の一件また確定の由報じ来る。待ちにまちたる吉報にして、しかも亦忽然の思あり。ほゝゑみ自ら禁ぜず。友と二人して希望の年は来りぬと絶叫す。」(明治37.1.14)
(上の写真は盛岡岩山啄木詩の道にある夫婦碑。「汽車の窓 はるかに北に 故郷の 山見えくれば襟を正すも」啄木、「光淡く こほろぎ啼きし夕より 秋の入り來とこの胸抱きぬ」節子)

<中津川や 月に河鹿かじかの啼く夜なり 涼風すずかぜ 追ひぬ夢見る人と>

 処女詩集「あこがれ」を刊行した明治38年(1905)年 5月、19歳で節子と結婚する。
 この歌は結婚後同年7月明星に載った歌で、「一握の砂」には入っていないが、小生の古い「啄木歌集」(昭和31年1月刊の角川文庫)のこの歌に赤丸が付してある。この川の近くに住み通学時にはいつも渡っていた川を読み込んだ歌を好もしく思っていたのだろう。 市役所裏手の中津川の川原の草叢にある小さな歌碑

 中津川は盛岡の中心部を貫通する、京の加茂川に似た風情の川である。啄木は結婚後まもなくこの川の上流、富士見橋(この橋は昭和56.3新架橋、啄木の頃は無論ない)付近(加賀野磧町)で文芸誌「小天地」を発刊している。新婚の幸せな想いあふれるそぞろ歩きの情景が見える。

 歌碑が盛岡市役所裏の中津川原と、中津川が北上川・雫石川と合流する手前の御厩橋(おんまやばし)付近にある。後者は、昭和58年11月現在の橋の完成に合わせて父一禎の歌とともに父子歌碑として建立された新しいもの。


 <わが妻のむかしの願ひ 音楽のことにかかりき 今はうたはず>

啄木新婚の部屋  盛岡女学校に通っていたころ節子は、バイオリンを習い歌も上手かった。筝も弾いた。しかし、そんな節子も新婚当初から生活に追われみるみる所帯染み、音楽について語ることもなくなる。 啄木は志している道に矜持を持ちながらも、昔を振り返り好きなことをさせてやれない辛さ不甲斐なさを感じていたにちがいない。
 何とか許されはしたが、あまり祝福されない恋、結婚ではあった。


 思  慕

(堀田秀子)
 堀田秀子は渋民尋常小学校代用教員時代同僚の訓導である。明治18年(3月29日)生まれ啄木より1歳年上である。渋民に赴任したのは、師範学校を出て初めて勤務した平館からであったが、新しい教育観を持った近代的な女性で、気立てのいいおっとりとした女性であったという。小さな渋民の中で職場をともにするうちに、単なる同僚以上の慕情を持ち続けるようになる。

<かの家のかの窓にこそ 春の夜を 秀子とともにかわず聴きけれ>

 啄木が故郷渋民を去り、函館に向かう前夜、秀子を訪れ、田圃で鳴く蛙の声を一緒に聞いた。
「夜ひとり堀田女史を訪ふ。‥‥ 程近き田に蛙の声いと繁し。」と日記(明40.5.3)にある。「これ最後ならむと思へば、何となく胸ふさがり‥‥」のとおり最後の逢瀬となる。
 啄木は長く思慕を寄せていたが、明治41年7月23日、東京で秀子からの手紙を受け取る。それには秀子が渋民を去り八戸に戻るとあった(八戸は旧南部盛岡藩で、いわば同県内)。

 「自分が渋民を去つてから、故郷と秀子さんとは同じものになつて頭の中に宿つてゐた。渋民を思出して此人を思出さなかつた事はない。」(日記)。啄木の中では渋民と秀子は同じ観念のものとなっており、秀子が渋民を去ることは自分が故郷と別れるのと同じように思い、慨嘆する。


(橘智恵子)
 思慕の本命は橘智恵子である。明治40年6月(11日)から3カ月勤めた函館弥生尋常小学校に、その後心の中に生きつづける<真直に立てる鹿ノ子百合>がいた。明治22年6月(15日)札幌村生まれ、啄木より3歳年少である。

 「一握の砂」の「忘れがたき人人」の「二」の22首は、 鹿の子百合 「しとやかなそして軽やかな、若い女らしい歩きぶりとさわやかな声」の智恵子を想う思慕の歌である。
 函館を去るとき同僚の他の女教師たちを酷評したあと、「橘智恵君は真直に立てる鹿ノ子百合なるべし。」(明40.9.3日記)と明らかに恋に囚われている。

 明治40年9月12日、札幌行きを翌日に控えて智恵子を訪れる。「相語る二時間余」を過ごし、「云ひ難き楽しみを覚」えるのである。ただ、智恵子と話したのは仕事上の事務的会話を別にすれば、前日の退職願提出時とこの日の2回だけであった。啄木がいかに強い思慕の念を抱こうとこの2時間では片恋の想いは伝え難く、

<かの時に言ひそびれたる 大切の言葉は今も 胸にのこれど>

<さりげなく言ひし言葉は さりげなく君も聴きつらむ それだけのこと>


盛岡北上川沿いの'啄木であい道'にある碑
と、胸の底に沈潜した想いを後に引き摺ることになるは、同情を禁じえないが、如何ともしがたい。
 このとき初めての詩集「あこがれ」を苜蓿(ぼくしゅく)社の同人から取り上げ、智恵子に手渡している。最後に何とかアピールしようと試みた、いじらしさがみえる。

 智恵子の実家は札幌郊外で林檎園を営んでいた。札幌に向かう前々日、智恵子から札幌の話を聞いたという。その折実家のことも話題に出たかも知れない。想いはいつも「四百里」(末記の歌)の北‥‥。

<石狩の都の外の 君が家 林檎の花の散りてやあらむ>

 智恵子の実家の庭には昭和41年に「北海道林檎発祥の地」の碑が建てられ、この歌が刻まれている。(札幌市豊平区平岸2条16丁目天神山林檎園相馬神社裏 S.41.10.23建立)

 清楚でさわやかな橘智恵子への心に秘めた恋、憧れは時を経ていよいよふくらみ、折々智恵子を想い、結婚する前に一度でいいから会いたいと日記(明治42.4.9)に認める。函館で別れてからほぼ2年を過ぎている。

<君に似し姿を街に見る時の こころ躍りを あはれと思へ>

<山の子の 山を思ふがごとくにも かなしき時は君を思へり>


 想いは募る。しかし相手は、手紙には社交辞令のような麗句はあるものの啄木の100分の1も思ってはいない。この歯がゆさ、悔しさ。
こちらから長文の手紙を出し、その返事が来る。又。今度は向こうから来るはずだ―。

<長き文 三年のうちに三度みたび来ぬ 我の書きしは四度よたびにかあらむ>

 明治43年5月、橘智恵子は北海道の牧場主北村氏と結婚する。(岩見沢の北村牧場の北村謹氏。明治43.5.1)
 このことを知ったのは明けて44年の正月早々であった。師走に刊行した「一握の砂」を送ったのに対する礼状である。差出人は「橘」ではなく「北村」だった。(明治44.1.6)
 ‘忘れがたき人人’の智恵子の歌を作ったのは、「一握の砂」初出の3首を含めすべて明治43年である。この間音信はない。
 啄木は、すでに想念の中にしか存在しないようになっていた面影を追いかけ、思慕の情を抒情的に歌い上げた。啄木の歌が支持されるのは、こういうひたむきな抒情にもよるのだろう。

<石狩の空知ごほりの 牧場のお嫁さんより送り来し バタかな。> (悲しき玩具)

 その手紙には、お礼として「自分のところで作ったバタを送る」と書いてあった。病弱だった彼にはいい贈り物だったかもしれない。事実をそのままさりげなく詠んだ歌だが、それだけに過ぎ去ったものへの哀惜の念が、強くにじみ出る。


 故郷が故郷である所以は、そこに心と心を交わした人の思い出があるからである。啄木はそれぞれの地にいろいろな交友の像を重ねていたが、彼が思い続けた故郷、盛岡には節子の、渋民には秀子の、函館には智恵子の、すがたが鮮やかに残っていたこと、想像に難くない。

 「忘れがたき人人」の 「二」 の上記を除く16首と、「悲しき玩具」からもう2首を下記に掲げる。

第 5 回 -了-

(特記ない歌は「一握の砂」より)
('03.08.26)



智 恵 子 へ の 歌

「一握の砂」の「忘れがたき人人」所収歌

<いつなりけむ 夢にふと聴きてうれしかりし その声もあはれ長く聴かざり>

の寒き 流離の旅の人として みち問ふほどのこと言ひしのみ>

<ひややかに清き大理石なめいしに 春の日の静かに照るは かかる思ひならむ>

<世の中の明るさのみを吸ふごとき 黒き瞳の 今も目にあり>

<真白なるラムプの笠の 瑕のごと 流離の記憶消しがたきかな>

<函館の かの焼跡を去りし夜の こころ残りを 今も残しつ>

<人がいふ びんのほつれのめでたさを 物書く時の君に見たりし>

<馬鈴薯の花咲く頃と なれりけり 君もこの花を好きたまふらむ>

<忘れをれば ひょっとした事が思ひ出の種にまたなる 忘れかねつも>

<病むと聞き 癒えしと聞きて 四百里のこなたに我はうつつなかりし>

<かの声を最一度聴かば すっきりと 胸やれむと今朝も思へる>

<いそがしき生活くらしのなかの 時折のこの物おもひ 誰のためぞも>

<しみじみと 物うち語る友もあれ 君のことなど語り出でなむ>

<死ぬまでに一度会はむと 言ひやらば 君もかすかにうなづくらむか>

<時として 君を思へば 安かりし心にはかに騒ぐかなしさ>

<わかれ来て年を重ねて 年ごとに恋しくなれる 君にしあるかな>


[悲しき玩具]所収歌

<Yといふ符牒、古日記の処処にあり Yとはあの人の事なりしかな。>
  (Yは弥生尋常小学校の頭文字のYである。小奴の「やっこ」のYという見方もないわけではないが。)

<外套の襟にあごを埋め、 夜ふけに立どまりて聞く。 よく似た声かな。>

「智恵子への歌」 以 上



ついでに、気になる女性が登場する歌、数首。
(小奴は、前回登場させたので割愛する。)

<思うてふこと言はぬ人の おくり来し 忘れな草もいちじろかりし>
  ―筑紫の歌人菅原芳子(明治21.5.21生まれ、2歳年下)を詠う。手紙だけの付き合い。勿忘草を英語で‘forget-me-not’ということを覚えたのはこの歌を知った中2のときだが、何とも綺麗な和語があるものと今でも感心する。

<ほたる狩 川に行かむという我を 山路にさそふ人にてありき>
  ―渋民のあどけなき友、瀬川もと子(同23.3.23生まれ、4歳年下)を詠う

<わが庭の白き躑躅つつじを 薄月の夜に 折りゆきしことな忘れそ> 
<わがために なやめる魂をしずめよと 讃美歌うたふ人ありしかな>
<わが村に 初めてイエス=クリストの道を説きたる 若き女かな>
  ―渋民尋常小学校の同僚で敬愛する女教師上野さめ子(同16.3.11生まれ、3歳年長)を詠う


以  上








啄木雑想目次
第1回:北上川 第2回:盛岡中学 第3回:北海道流転Ⅰ-函館
第4回:北海道流転Ⅱ-札幌・小樽・釧路 第5回:初恋・思慕 第6回:思  郷
第7回:秋  想 第8回:東京啄木散歩 第9回:新年・新しき明日
第10回:誕生・渋民 第11回:  酒   第12回:終  焉
啄木幻想:はじめの恋 啄木略年表 写真帖「啄木ゆかり」


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