如雨と而酔のページ
>
啄木雑想
>渋民紀行
渋 民 紀 行
2005.7
※ 文中の写真をクリックすれば大きめの写真がでます
7月上旬、秋田・黒湯で気分ゆったりと秘湯を楽しんだ後、懸案の啄木の'ふるさと'渋民を訪ねるため盛岡に向かう。
盛岡に着いた午後3時、先刻までの強雨は上がり薄日さえ射していた。
ホテルに荷物を預け、早速近くの自転車店で自転車を借り、啄木新婚の家
(盛岡市中央通三丁目17-18)
や盛岡城址
(盛岡市内丸)
など市内のいくつかの歌碑など
※
を日暮れ前に急ぎ回り、渋民訪問の精神的ウォーミングアップをする。
※ 新婚の家-岩手銀行前の碑-医大前の碑-富士見橋の碑-龍谷寺-盛岡城址の碑-大通りの商店前の碑-啄木であい道
あくる朝、日の光にホテルを飛び出し、今から近づこうとしている岩手山の雄姿を見ようと '啄木であい道' の中を通り旭橋に。ここ盛岡は朝の日差しが明るいが、残念、厚い雲が遮り20km先の岩手山は全く見えない。
前日までの豪雨で北上川の水はあの硫黄鉱毒垂れ流しのときよりも濁っていた。
渋民の啄木一号碑
啄木の生まれ育った渋民村(現玉山村)は、盛岡から北に15Kmほどの、西に岩手山、東に姫神山を望み、北上川が北から南に流れる農村である。
渋民には53年ぶりの往訪、啄木に親しむ者としては手の抜き過ぎと責められても仕方がない。
この日は曇ほんのときどき晴、やや蒸し暑さを感じる日であった。
好摩駅構内の珍しい木碑から始めて、渋民へと啄木の歩いた道を辿った。
事前の勉強不足で見落した所もあるが、各所とも夏休み前の平日で訪れる人もまばらでゆっくり見学できた。
まず巻頭に懐しい啄木一号歌碑の写真を掲げ、スタートしよう。
<やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに>
好 摩 駅
盛岡駅から、今はいわて銀河鉄道=IGR と名を改めた旧東北本線で好摩に着く。
好摩駅の構内一番線ホームに、
<霧ふかき好摩の原の 停車場の 朝の蟲こそすゞろなりけれ>
と書かれた珍しい木製の碑がある。
いったん駅から出て探したがそれらしいものがないので、駅員に尋ねたらホームにあるという。再入場させてもらう。
駅のそば線路沿いの広場に、渋民に至る啄木ゆかりの場所を示す新・奥の細道の案内板がある。 これを見て渋民まで歩こうと決める。
この付近にも碑があるというのだが、見逃したらしい。
夜 更 の 森
好摩駅から西に1km足らずの小高い丘に「夜更の森」がある。
展望台への上り口の広場に歌碑があった。どうしてここに、と訝ったが、目指している歌碑ではなく、新しい
<公園の木の間に 小鳥あそべるを ながめてしばし憩いけるかな>
の碑であった。碑を包むツツジが育ちすぎて碑面の下が隠れている。
前夜の強雨の流れた跡が残る細い山道を登る。
右手に姫神山(標高1,123m)を確かめるが恥ずかしげにすっかり雲のなかに隠れている。
ほどなく東家のある稲荷山頂展望台に至る。そこに啄木の妹三浦光子の書になる碑がある。
姫神山麓から切り出した高さ2m・幅3mの大きな花崗岩に、
<霧ふかき好摩の原の 停車場の 朝の虫こそすずろなりけれ>
と刻まれている。碑陰に '昭和三十五年春 好摩有志建之' とある。
碑のうしろにはひっそりとヤマボウシが白い花をつけていた。
坂道を降りながらも姫神山が気になって、西を見るが僅かに山裾を見せるのみ。
好 摩 小 学 校
戻って、好摩小学校に至る。校門は閉じられてはいない。出入り自由である。
校門のすぐ右手に啄木半身像と歌碑がある。
碑に刻まれた歌は、これも
<霧ふかき好摩の原の 停車場の 朝の蟲こそすずろなりけれ>
である。「好摩」の地名が入った歌はこれしかないのだ
(少なくとも「一握の砂」「悲しき玩具」には)
。
学校の先の花壇で花苗を植える作業をしていた子供らに目で会釈しながら、去る。
好摩から渋民へ
さて、渋民にはどう行こうか。好摩駅からいわて銀河鉄道(IGR)にひと駅乗ろうか、それとも5km余はあろうが啄木の歩いたIGRの線路沿いの道を南に歩こうか。
新・奥の細道の案内板を思い出し、蒸暑さはあるがこの程度は、と渋民まで歩くと決める。
啄木は盛岡との往復も、東京に出るときも、函館に渡った時も、この道を通った。と、少しばかり往時を偲び足を踏み出す。
歩道のない単調な道路で、右側のIGRのレールを時折長い貨物列車が通り抜ける。
久しぶりに聞くカッコウの声のほか格別の風情はない。
左手に姫神山の姿を探すがまだ雲が隠している。右手にあるはずの岩手山(標高2,038m)はまったく姿を見せない。
北上川を川崎橋で渡る。
ややあって、地図を持っているわけではないので怪しげだが勘で左に曲がる。先に運動公園らしきものがある。どうやら町の方には向かっているらしい。
鶴 飼 橋
そして、北上川の鶴飼
(つるかい)
橋に至る。来たぞ、渋民!
当時は木製の吊り橋だったこの橋を啄木は折に触れ、’殊更に月ある夜を好み’訪れ親しみ、何度となく行き来した橋である。 「鶴飼橋に立ちて」の詩を残す。
詩の前書きに言う、”橋はわがふる里渋民の村、北上川の流に架したる吊橋なり。岩手山の眺望を以て郷人賞し措かず” と。
「おもひでの山 おもひでの川」の姿の原型はここにあると確信する。
渋 民 公 園 歌 碑
鶴飼橋から小さい坂を登った小高い丘に、「おもひでの山」秀峰岩手山を東に仰ぎみる渋民公園がある。
ここに啄木あまたの碑の最古参、冒頭に掲げた第1号歌碑がある。大正11(1922)年4月13日(=啄木没後10年目の命日)に建立、序幕された。歌碑にした石材は、厳寒の2月渋民村合羽沢
(小生、位置未確認)
から切り出し特製の橇で三日がかりで運んだという。
碑陰には「無名青年の徒之を建つ/東亜戦下昭和十八年五月此處鶴塚に移す」とある。河岸の崩れの惧れがあり移設しようとした折、国家危急のとき危険思想の人間の碑を移すのかとかなりの嫌がらせがあった。あえて「東亜戦下」と記した所以であろう。
何度も碑の周りを回り、渋民・啄木のシンボルをためつすがめつ、見る。
ここからは岩手山とともに、ちょうど反対側に姫神山も見えたように思っていたが、公園として整備され木に遮られ見えない。
宝 徳 寺
整備中の広い道路を5分ほど行くと啄木記念館に着く。が、修学旅行の一団がいたので、構内を通り抜け隣接する万年山宝徳寺に行く。
明治20年、啄木1歳のとき曹洞宗の僧の父の転住により、同じ渋民村内の常光寺からここ宝徳寺に移る。
多感な少年時代と、盛岡中学を退学して上京後病を得て帰郷した時期を過ごす。父住職の宗費滞納によって、啄木再度の上京中の明治38年(啄木19歳)に寺を追われるまではここが本拠だった。
結婚後の代用教員の渋民在住期間は借家(後にみる斎藤家)である。 処女詩集『あこがれ』が、否、詩人啄木はここで生まれた。
寺門の前の説明板はいかにも古びているが、正面には新しい本堂がすっきりと建つ。
境内に入るとすぐ右に3メートルほどもあろうか、高い歌碑がある。 楷書体で
<ふるさとの寺の
畔
ほとり
の ひばの木の いただきに来て啼きし閑古鳥!>
を刻む。啄木没後50年(昭和36年4月13日)に住職の遊座芳夫師が建立したもの。傍にはサワラの大樹がいかめしい。村の保存樹と記されている。
なお、ヒバの木は境内にあるにはあるがこの歌の ヒバ はイチイの木だろうという。
沼田サダ(
「
はじめの恋
」
参照)の七十回忌に建てられた(S37.10.11)
「凌霄花」
(のうぜんかずら)
の詩碑は、うかつにも見逃した。
「君が墓あるこの寺に、……」と ’
六歳
むつ
の日の恋’を詠んだ長詩の一部が刻まれているはずの碑である。何とも心残りである。
啄 木 記 念 館
戻って啄木記念館に行く。好摩駅から歩き続けたので、リーフレットを読みながら少時足を休める。渋民駅からであれば、国道4号線を経て2kmほどの道程である。
この記念館は、昭和45年に旧館が建てられ、啄木生誕100年を機に現在の新館が完成(昭和61年5月)したものである。
館内には、直筆の書簡、ノート、日誌、答案、履歴書、啄木使用の山葉のリードオルガンなどが展示され、ワクワクしながら「本物」に見入る。写真パネルなどの展示物もゆっくり見て回る。小生たった一人である。
書箱・書架には啄木関係図書が多く充実している。どう使われているのだろう。
敷地内には渋民尋常高等小学校、斎藤家が移築されており、また、中庭には、「啄木先生と子供達」のブロンズ像と妻節子の歌碑(斎藤家旧宅前)が置かれている。
<この舟は海に似る
瞳
め
の君のせて
白帆
しらほ
に
紅
あけ
の
帆章
ほしる
したり>
啄木が通い、また、代用教員として教壇にたった旧渋民尋常小学校の木造2階建ての古い校舎がここにある。
昭和38年まで地域の公民館として現役だったという。記念館の開設に合わせて移築された。
斎藤家旧宅の屋敷が並んである。ここは啄木が結婚後の盛岡での生活に負け、傷心やるせない気持ちで渋民に戻った時の借家である。妻節子と母とともに1年余住んだ。
南部のいわゆる「曲り家」ではないが最奥に馬小屋がある。
もう一度啄木記念館に戻り展示室を一回りして、啄木がしばしば登り瞑想した愛宕の森に向かう。
愛 宕 の 森
宝徳寺の隣にある保育園の先生に行き方を訊ね、園児の「いってらっしゃーい」の声に送られ、愛宕の森を目指す。
啄木時代の旧渋民尋常小学校の裏手の小山で、老杉の中に愛宕神社が鎮座する。
神社の参道からではなく、後ろの山道から登る。 幅いっぱいに水が溜ったクルマの轍がある小道を行く。登り口を見落とし行き過ぎたが、そのお蔭で雉に出会う。こちらを二度三度振り返りながらうぐいすが鳴く林に消えた。
すぐに戻り間伐材の丸太で作った約200の階段を上り最高部に着くが、展望台や歌碑がある雰囲気はでない。間違えたかとも思ったが、先の下り坂を進んだところに小さい案内標識があった。やれやれ。汗を拭く。
奥の山道への入口に啄木自身の筆跡を刻んだ歌碑が立つ。
<新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど―>
代用教員だったころ、ここに児童を集めどんな理想を語ったろうか、と思いをめぐらす。
岩手山を真正面に見る展望台の半円形のテーブルには、
<ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな>
と、これも啄木の筆跡で刻まれている。
啄木はここを’生命
(いのち)
の森’と呼び、新しい生気を得、詩興を涵養した。
その岩手山は7割方雲に覆われいまだ見えない。
同じ山道を帰る。
メスの雉が道を横切る。さっきのキジかな。
ライオンズクラブの碑
帰り道、記念館の前を通り、敷地手前に地元のライオンズクラブが最近建てた歌碑を見つけた。
歌は夜更の森公園入口と同じ、
<公園の木の間に 小鳥あそべるを ながめてしばし憩いけるかな>
である。
好摩小学校の碑もそうであったが、建立した人(団体、会社)が碑の表に出ているのは、あまり愉快ではない。
渋 民 小 学 校
渋民公園から記念館への途中にある、通り過ごしてしまった渋民小学校校庭の碑を、時計を少し気にしながら見に行く。
小学校中央出入り口の前の築山の主のように碑(S58.3.19建立)はあった。
<その昔 小学校の柾屋根に 我が投げし鞠いかになりけむ>
碑面には故意につけたのか、サッカーボールの痕が残っていた。
この歌の碑は盛岡の下ノ橋中学校(啄木が学んだ旧盛岡高等小学校)の校庭にもあるが、’柾屋根’はこちらの方が似つかわしい。
同じ時期に建てられた啄木作詞の渋民小学校の校歌の碑が西の校舎際にあった。
暑くなった陽射しに汗をぬぐいながら、ふと見れば、岩手山ばかりに気をとられて看過していた姫神山がくっきりと姿を現していた。
<岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる蟲を何と聴くらむ>
の碑がないのがなんとも不思議な感じがした。
この雄大でかつ繊細な美しい望卿の歌をどうしてこの渋民あるいは好摩が採らなかったのだろうか。最近国道のバイパスで北上川に架かる 笹平大橋の親柱に刻まれたというが、取ってつけたような違和感を禁じえない。
バスで盛岡に戻る。長い間放っておいた責めを果たしたような快い疲れにまどろんだ。
-了-
「渋民紀行スライドショー」
にもう少し写真があります。
===========================================
「 啄 木 雑 想 」 書 き 流 し 目 次
第1回:北上川
第2回:盛岡中学
第3回:北海道流転Ⅰ-函館
第4回:北海道流転Ⅱ-札幌・小樽・釧路
第5回:初恋・思慕
第6回:思 郷
第7回:秋 想
第8回:東京啄木散歩
第9回:新年・新しき明日
第10回:誕生・渋民
第11回: 酒
第12回:終 焉
啄木幻想:はじめの恋
啄木略年表
写真帖「啄木ゆかり」
このページの先頭
に戻る ∥
啄木雑想
のトップに戻る