2月は啄木の生まれ月である。(末尾[付]啄木の誕生日について 参照)
啄木は明治19年(1887年)2月20日、岩手県南岩手郡日ノ戸村(現玉山村)、父が住職を務めていた曹洞宗常光寺に生まれる。母親40歳にして恵まれた初の男児として一家の喜びは一入であった。
父石川一禎と工藤カツは恋愛のすえ結ばれたが、表向きの妻帯をはばかりカツを内縁の妻としていたため,長姉サダ(1876年生れ)・次姉トラ(1878年生れ)と同様にカツの子「工藤 一
(はじめ)」として届けられた。
翌20(1888)年父の住職就任に伴い一家は渋民村宝徳寺に移る。
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啄木の育った宝徳寺 |
以前の稿(第6回「思郷」)で紹介した、
<閑古鳥―― 渋民村の山荘をめぐる林の あかつきなつかし。> (悲しき玩具)
と詠った「山荘」である。明治28(1895)年盛岡高等小学校に入学するまでここに住む。
啄木が“ふるさと”と呼ぶのは,この宝徳寺のある渋民村である。
家族は、父母姉2人妹1人の6人。
父石川一禎は1850年(嘉永3)4月8日陸中国岩手郡平館村に生まれる。農家の出だが短歌雑誌『心の花』などを愛読し、3800首に及ぶ歌稿「みだれ芦」を残している。啄木はこの‘歌人’の血を承けている。
母カツは、1847年(2月4日)陸中国南岩手郡仙北村南部藩士工藤条作常房の第7子で3女。一禎の師僧葛原対月
※の妹
※※である。
(※ 葛原対月は盛岡の曹洞宗龍谷寺の住職、後青森・野辺地の常光寺に左遷?される。 ※※ 対月の妹であるが自分の娘として一禎に娶わあわされた。啄木にとって対月は伯父であり祖父である。)
明治21(1888)年12月20日啄木3歳の時, 妹の光子(戸籍上はミツ,第4子で3女)が生まれる。
明治24年、村で唯一ともいうべき知識人の家に育ち、父にねだって学齢より1年早く5歳で渋民尋常小学校に入学した。早生まれで一年早い就学だから相当なハンディがあっただろう。
<小学の首席を我と争ひし 友のいとなむ 木賃宿かな>
“友”とは工藤千代治で、村役場の書記を務めながら木賃宿を経営、後に村長も勤めている。
神童といわれたが、1〜3年生ではこの2歳年長の千代治の後塵を拝し次席、首席となったのは尋常小学校最後の4年生になってからだった。卒業時も首席であった。(当時の義務教育は尋常小学校4年まで=1886年小学校令)。
啄木は、その千代治らの話では、体の丈夫でないわりに、勝気で、強情で、我侭で、悪戯にかけても第一人者、であったという。(吉田孤羊「啄木写真帖」)
<目をさまして猶起き出でぬ児の癖は かなしき癖ぞ 母よ咎むな> (初出明43.3.23東京毎日新聞)
おおらかにというより我侭いっぱいに育った啄木は、朝の寝起きでも母を困らせた。おそらく大人になっても変わらない癖だったろう。
雪が深く積もった日、何が不満だったのかお堂の回廊いっぱいに雪を積み揚げた悪さには、普段何も言わない父も大いに怒ったという。
<大形の被布の模様の赤き花 今も目に見ゆ 六歳の日の恋> (初出一握の砂)
またこの村の幼い秀才は、女の子の赤い衣装に心を奪われる早熟の子でもあった。
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渋民小学校と後方の姫神山 |
凡人はその頃のことは、茫々彼方に淡しとなるのであろうが、啄木には‘今も目に見ゆ’るのである。
長じて38年結婚後盛岡に居を構えはしたが、生活の資を得る道なく貧乏の波に押され9か月でやむなく渋民に移る。父の住職解任をめぐる村を二分する争いの中で、周囲の目はきつい。憐憫、嘲笑、蔑み。
<そのかみの神童の名の かなしさよ ふるさとに来て泣くはそのこと> (初出明4311スバル)
<ふるさとの土をわが踏めば 何がなしに足軽くなり 心重れり> (初出一握の砂、作歌明4308)
そして一年後には渋民村は遠い地になってしまう。父の復帰に関わる村内の抗争、軋轢に耐え切れず、‘故郷を出でし悲しみ’は始まる。
<石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし> (初出明4311スバル)
この歌は亡父がなぜかときどきくちずさむので、早い時期に覚えた歌のひとつである。
故郷を想い懐かしむ歌は多いが、幼少期を除いて辛酸を嘗めた所でもある。
明治40年の北海道への旅立ち以来土を踏めなかったふるさと渋民――、父の宝徳寺住職解任さえなかったならばと、どうしようもない運命を幾度憾んだか知れない。
第10回 −了−
(特記ない歌は「一握の砂」より)
('04.02.29)