如雨と而酔のページ啄木雑想>今月の一首


二 月

しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな
「しらしらと」だけでも冬の清澄な情景が浮かんでくる。冴えざえとした厳寒の海の景に千鳥の鳴き音を協奏させた、美しい叙情歌である。
千鳥が釧路を訪れるのは3月から4月初めにかけてというから、2月の歌ではないかも知れないが、「冬の月」を3月に持っていきにくい。
この歌の背景となる日記が明治41年3月17日にある。
「汐が引いて居て砂が氷つて居る。海は矢張静かだ。月は明るい。氷れる砂の上を歩いて知人岬の下の方まで行くと、千鳥が啼いた。生れて初めて千鳥を聞いた。千鳥! 千鳥! 月影が鳴くのか、千鳥の声が照るのか! 頻りに鳴く。彼処でも此方でも鳴く。氷れる砂の上に三人の影法師は黒かつた。」
一緒に行ったのは3人であり、ひとりは釧路日報の上司佐藤氏、もうひとりは啄木に思いを寄せる下宿向いの病院の看護婦梅川操である。
このころ親しくなっていた小奴はいないが、2年後にこの歌を詠んだとき(「東京朝日新聞」明治43年5月9日初出)にはそこに小奴が居たに違いない。
同じ知人しりと海岸の歌に、
<さらさらと氷の屑が 波に鳴る 磯の月夜のゆきかへりかな>(「スバル」明治43年11月号初出)
がある。
この歌は「手を取合つて、埠頭の辺の浜へ出た。月が淡く又明かに、雲間から照す。雪の上に引上げた小舟の縁に凭れて二人は海を見た。少しく浪が立つて居る。ザザーツと云ふ浪の音。幽かに千鳥の声を聴く。」と書いた明治41年3月20日の日記の小奴との逢瀬。
釧路で酒を覚え芸者を知り、釧路新聞社の主筆格として活躍、気ままな新聞記者生活を過ごしながらも、自分の能力はここでは生きないと知り、不満を重ねて行った。このような日々の中でも釧路の海岸は脳裡にしっかり残る清冽な風景だった。
「兎も角も自分と釧路とは調和せぬ」(3月25日日記)と、22歳の天才は東京での雄飛を胸に描きつつ酒田川丸に乗込み、4月5日海路釧路を去る。‘さいはての駅に下り立’ってからわずか7旬しか経っていない。
知人海岸に近い、釧路市米町の米町公園内に「しらしらと‥‥」歌碑がある。

(2007.2)




一 月

何となく、 
今年はよい事あるごとし。 
元日の朝、晴れて風なし。
新しい年を迎えて目覚めた朝に自然に浮かんでくるのは、まず「悲しき玩具」のこの歌である。
今年(2007年)は晴れて風のない元日を迎えた。清澄な空の下大きく息を吸うと、新しい年にほのかな希望を感じないわけにはいかない。今年はいいことがありそうだ、いや、あって欲しいと思う。この歌にはそんな迎春の気分が素直に詠まれている。
この歌の初出は明治44年「創作」1月号であるから実際の作歌は前年12月であろうが。
啄木はこの歌を希望に満ちた穏やかな状況の中で詠んだのではない。むしろ押し潰されそうな気持を年の初めには一時なりとも解き放ちたいという願いが、この穏やかな雰囲気を詠わせたのであろう。
この歌を作った前後をみよう。
10月23日長男眞一が「この世の光を24日間見ただけで」(妹光子宛書簡)死亡。 父母妻子を抱えた生活は苦しい。このころの啄木は体調もよろしくなく、朝日新聞社への出社も途絶えがちとなる。それなりの賞与をもらっても借金返済もあり右から左へ。 貧窮の度を加える中で、43円の月給のうち10円を稼いでいる夜勤を12月でやめる決意をする。
郁雨に窮状を訴える電報を打つ。「ヒ一ニチクルシクナリヌアタマイタシキミノタスケヲマツノミトナリヌ」(12/26)
こういう中で、処女歌集「一握の砂」を12月に刊行、心躍るものがあったろう。
郁雨宛書簡(12/31)の中で「僕は然し来年はいい年だろうと思っているよ。御幣をかつぐやうだが今年は後厄だったからなァ」と言わせたのは歌集上梓があったからか。

明けて明治44年。果たしていいことはあったか。
この年は大逆事件にいたく関心を持ち、資料を丹念に調べることから始まる。啄木の内側に社会経済組織の改革を目指す思想が相当に高まってきている。
2月初めには慢性腹膜炎と診断され、東大病院でひと月余の入院生活を送る。
病院を出ても無論快癒したわけではなく、この先体は衰えを増していく。
この年を生き延びたことが「いいこと」だったのかも知れない。

しかし、貧窮の中で、なんとも爽やかな新春のイメージを与える歌を残してくれたものである。

恥ずかしながら本歌取りの新年の句 ―    晴無風よき年ならむ初日記

(2007.1)


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